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2014/08/22

餓死の話をしよう(2)

年が明けて1945年。制海権はすっかり敵の手中にあり、補給船がウェーク島まで、十分な食糧を運んでくる術はありません。渡辺兵長の筆は、悲惨の度を深めていきます。引き続き1954年6月16日の朝日新聞夕刊「一日本兵『餓死の日記』」から引用します。
(20・1・20)部隊長殿の誕生日、一口でのみ込めるぐらいのちっぽけなモチ配給さる。よその中隊の将校と自分の隊の将校が、モチの大きさをめぐってけんかを始める。お偉方でもこのザマだ。
(20・1・24)中隊長殿士気高揚の訓辞をする。自分たちは立っていることも出来ないぐらいにフラフラだ。8名に1個のミカンのカンづめが配給さる。
(同2・19)また1名タバコの葉1枚を盗んで営倉入りだ。敵しょう戒機2機。
(同3・5)イワモト兵長発狂して寝台にしばりつけられる。だが、どう抜け出したのか、道ばたで木の葉をむしっているのを発見され、営倉に押し込められる。また士気高揚の訓話あり。そんなものは今の自分らには馬の耳に念仏だ。敵しょう戒機2機。
(同3・7)戦局日に悪化すとの理由で再び配給減る。食物の減少、姿を見せぬ船、海水のスープ。なんとか自分だけでもウェーキを脱出したい。
(遺稿らしき日記の断片、衰弱と精神錯乱で判読困難との注あり)
出征以来の覚え書き――お召しを受けてから日記を書き続けて来た。ウェーキへ来てからもすでに2冊となった。この日記の最後の1ページは帰国してから書きたかった。だが、自分の一生はこの日記のかたわらでいま終わってしまう。
たとえこの日記が故国へ帰っても自分はもう読み返すことは出来ないのだ。この2冊はいままで自分が書いたもののうち、いちばん苦しかったものだ。軍隊にこんな地獄があるとは思わなかった。7月(注・1月の誤りか)1日から8月7日の8カ月、自分は生と死の境をさまよった。これだけは忘れることは出来ない。次の日記にはこんなひどい苦しみを書きたくない。もう食糧は来ないだろう。(引用おしまい)
何たる絶筆か。
十字砲火の恐怖のあまり排尿脱糞した兵士より、極限の空腹に垂れ流すクソしょんべんすら体内に無く横死した人間の方がずっと多かった70年前の太平洋は、戦場であるとともにホロコーストの現場でもありました。
爆弾三勇士、真珠湾の潜水艦九軍神、隼・零戦もろもろの特攻に戦艦「大和」。愚にもつかない無意味な犬死にが、一部で美談として再び持ち上げられつつあります。そこには「なぜそうなった?」の視点が常にない。
鳥取城の飢えキャラ「かつ江さん」を、飢餓は見たくないからと行政に文句つけてつぶす無神経に、平和ボケで済ませられない、何か不安な苦い味を覚えます。目を覆い、耳を塞いで、口をつぐむ。
おじさんは、汚くて、ダサくて、みじめで、みっともない、兵卒たちの死に様にこだわります。それが、子孫たちを同じ目に遭わせぬと願う英霊の供養だと信じているからです。