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2014/05/31

集団的自衛権・井上ひさしと加藤周一の遺言(2)

前項から井上ひさし・加藤周一対談の続きです(「井」は井上、「加」は加藤)。

井 (中略)私たち日本人は、ホンネは腹の底に隠しておくもの、言葉になったものはほんのタテマエという考え方でやってきました。国会の証人喚問にしても、証人も議員も、そして国民も、本気で本心を言おう聞こうとしていません。(後略)

(注・第二次世界大戦も福島原発事故も、昔の人たちやおじさんらの世代に、もっと言おう聞こうとする気持ちが足りませんでした。今の憲法からみんながもらっている幸せについて、ぜひ学校や図書館で調べてみて下さい)

加 そう、そもそも説得しようとしていない。筋が立った議論もない。共通の地盤に立ち、筋道を付けて相手を納得させる必要を感じていないというのは、傲慢(ごうまん)だと思いますよ。「誠心誠意対処します」という答えで、議会の質問者も引き下がる。政治家に限らず、日本人には議論する習慣がない。理屈っぽいというのは悪い意味になってしまう。

(注・民主党は、国の危機に対して党を一本化してぶつかる意気もありません。バラバラです。権力を持っただれかのチカラがさらに肥大化した時、野党は何ができるのかな?興味がある人は、1933年のドイツで、ナチスが国会議事堂に放火した事件の後、憲法と野党がどんな目に遭ったか調べてみよう)

井 (前略)会社のなかでは言葉がそれなりに機能していて、小さいながらも言葉の有効な体系がある。ところが、会社と会社の間の「公」のところには、意思を通わせ合う回路がない。

(注・少し前まで、日本は「ムラ社会」だという言葉がはやっていました。閉鎖的だという意味で、決していいものではありません。みんなの世代から少しずつ変えていってね)

加 外部との話し合いは伝統的に下手だ。それが外交にも出ている。議論のために一番有力なのは、人間ならだれでもわかるという、理屈の普遍性なのに。
井 外交では、外国と五分五分の関係をつくることができない。対アメリカならば、わざわざこちらから従属関係を作ってしまう。その一方、アジアに対しては親分ふうになる、という具合に、常に関係を作ってから言葉を探す。関係が言葉を作る。言葉で関係を作ることが苦手ですよね。

(注・集団的自衛権はだれのために必要なのかを考えてみましょう。問題の核心です。わざわざ従属関係を作る代償は、今回の場合は国民の生命だね。親分への人質だ。軍隊の命令系統はトップダウンなので、いざ戦闘行動に入ったらあれはできない、これは嫌だって選り好みはできません。自衛隊が地球の裏側での戦争に行ったら、総司令官は米国大統領や連邦議会議員の選挙権を持つたくさんの親族が後ろについている米兵と、日本が差し出した自衛官のどちらを、よりキケンな任務に振り向けるのかな。日本外交は、アジアに対しては、今まさに親分風をびゅんびゅん吹かせています。いつもケンカ腰だけど、先日の空自と中国戦闘機の異常接近みたいな危機が起きた際に、話し合いできるパイプはあるのかな?)

(中略)加 計算された言葉のすり替えもありますね。米国が何かを要求してきて、受け入れざるを得ない時、国際的責任と表現する。実は米国に対する責任なのに。(後略。以上、引用おしまい)

(注・安倍さんは集団的自衛権のお話になると途端に「責任」を連呼します。一度テレビで数えてみよう。案外おもしろいよ)

12年近く前に行われた対談だとは思えない的確な指摘でした。日本の政治がそれだけ硬直してきた証左かな。加藤周一、2008年没。井上ひさし、2010年鬼籍に入る。2人が遺した「遺言」は、いまなお色あせることがありません。